ぼーっと読んでいると、「え?」と思わせてくれるおもしろい本です。
以下、抜粋
こうして読んでいただいている読者の一部は、まあ、まだ若く、年端もゆかぬなんて書いたら怒られるだろうけど、ともかく子供なのであまり気にすることもないのだろうが、私ぐらい大人になると、「何を手にもってはいけないか」について、よほど慎重でなければいけないことになっている。世の中では、何を手にするかが問題にされ、しゃれた手帳や小粋な小道具が大人を演出するなどと間抜けなことが話題になるが、「何を手にしてはいけないか」について人はどうも無神経だ。
(中略)
さらに私は、「バナナ」もいけないと思う。
想像していただきたい。バナナを手にしている大人が、どれだけ間抜けか。紙袋も凄いが、バナナもまた凄い。あれほど、間抜けに感じさせる果物のことを私は知らない。まず色が凄いじゃないか。黄色である。大人がこともあろうに黄色の持ち物を手にするなんて考えただけで恐ろしい。だいたいあの形はなんだ。人をばかにしているのか。ぬるっと長い。長いだけならまだしも、妙なカーブが付いている。あれはなんだ。あれがどうも、バナナのバナナたる由縁であるらしく、たとえば手に握った時のあのカーブのせいで、右か左か、先がどちらかに反り返るようになり、何とも人をばかにしたような状態になるのだった。しかし、バナナの特殊性も見逃せない点で、房に何本ものバナナが付いた状態のものもまた、何らかの問題はあるに違いないが、バナナが、バナナとして「人を間抜けな状態」にさせるのは、なんといっても「一本」だということだ。
ひとつ、口に出すか紙に書いてみたまえ。
「バナナが一本」
そこにはえも言われぬ間抜けさが漂っている。まあ、この文章は「何を持ってはいけないか」が中心なので、話を広げるのはどうもあれだが「バナナが一本」は、ただそこにあるだけで空間を台無しにする破壊力を秘め、想像するだけで私を震撼させる。たとえば、神社にお参りに行ったと考えてみよう。賽銭を投げ、柏手を打ち、手を合わせ、ふと眼を開くと、神社の階段部分に眼が行く。そこにバナナが一本、何気なく置かれているのだった。
「あれ」と思うのも無理はない。「なんだ、なんなんだよー」と走りたい気分だ。何かが変だ。どこか狂ってる。何しろそこには、「バナナが一本」あるのだ。髪も仏もあったものか。これほど無自覚な形而上(けいじじょう)学的批判が他にあるというのだろうか。ああ、恐ろしい。なんという恐ろしさだ。「バナナが一本」に、ほとほと私はまいりました。では、バナナの皮の、あのだらしなさをどう考えたものか。ああ、いやだ。あのだらしなさ。ぐてっとしたあれが、人の気分を萎えさせ、すべての力を奪い去っていく。
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さらに、「T定規」も変だ。「瓦(かわら)」もおかしい。「石鹸箱(せっけんばこ)」はもってのほかである。